2018年9月15日土曜日

日本人らしさって

今回は少し政治的な話になるので興味のない方は飛ばしてください。

ここ数日、日本国籍の女性で初のグランドスラムを制した大阪なおみ選手の話題で持ち切りですが、同時にネット上では日本人の定義に関する話題も日本語でいくつも見かけました。そんな記事を飛び飛び読んでいたら、2015年のミスユニバース日本代表に選ばれた宮本エリアナさんという方の話題にも触れることになりました。Wikipediaによるとアフリカ系アメリカ人のお父様をお持ちとのことで、その様な方が日本人代表に選ばれたということに当時、違和感を持つ声が上がっていたそうです。外国に住んでいると常々国籍という概念と身近に接しているためか、単にわたしが個人的にこういうことを考えるのに興味があるためかわかりませんが、ネット上の違和感、それに対する賛成意見と反対意見を読んで、自分でもいろいろ考えてしまいました。

個人的な意見ですが、国籍はわたしにとってある意味神聖なもので、売り買いするものではないと思ってきました。例えば国籍変更してスポーツの国際大会に出ている選手を見かけると、違和感を感じてしまいます。スペイン代表にも、スペイン国外生まれの帰化選手がいますし、先月あたりに開催されていたヨーロッパの陸上選手権には、外見と名前だけではどこの国の人かわからない選手が非常に多数参加していて驚きました。帰化ではなく移民の親の元にその国で生まれ育った方もいるでしょうから、そういう方々の人生を想像すると、国籍の定義も存在意義もよくわからなくなってきます。わたしは日本人であることを嫌だと思ったことは一度もないので、そんな自分の国から好きでスペインに移住した身としては、国籍を変える気はさらさらありません。なぜこんな話をするのかというと、スペイン人からよく「スペイン国籍じゃないの?」と驚かれるからです。また、移住が決まった当時、日本人の友達からも何人か「国籍を変えるの?」と聞かれ大笑いした経験もあるからです。でも、仮にわたしがシリアやミャンマーからの難民で、自国の体制に全く嫌気がさしていて、さっぱり自国とは縁を切りたいと思っていたら、どうでしょう。

本題に戻って、国籍の異なる親の元に生まれた人はどちらの国籍に属するのかという疑問ですが、わたしは当事者ではないので単なる一市民の傍観者として、育った国に属するのではないか、と考えていました。また、ある国で育つということは、ある言語で育つということです。”違和感のない国籍”とは育ってきた環境に準ずるのではないか、と。わたしは「ハーフ・ミックス」の知人友人が何名かいますが、例えば同じ日本とスペインのハーフ・ミックスでも、スペインで育った知人と日本で育った知人とでは人として接した際の印象が違います。どちらも金髪に青い目、という”典型的でない”日本人の外見ではありませんが、話し方、話す内容、動作の一部始終がやはりスペイン的、もしくは日本的に感じるのです。一方で、育った国と育った言語(文化)が一致しない人に知り合う機会もありました。両親の国籍が異なるという環境だけに収まらない人たちです。例えば日本人の両親のもとにスペインで生まれ育った知人もいます。彼の日本語会話はまったく日本人的ですが、動作はどことなくスペイン人的です。また、かつて日本人とシンガポール人の両親のもとに、日本で生活している姉妹に接する機会もありましたが、通っていたのはインターナショナルスクールでした。彼女らが成人しどちらの国籍を選んだのかは知りませんが、日本に住んでいながら日本人との接触がメインではなかったためか、当時すでに日本人ではない雰囲気をまとっていたのを思い出しました。彼女の一人が仮にミスユニバース日本代表になっていたとしたら、どうなっていたのでしょう。外見は”日本人の範疇”に収まりますが、日本語が疎かで、お辞儀がたどたどしかったら…。

冒頭の大阪選手に関する記事ですが、有名な脳科学者という方が寄稿した記事に、『アメリカではどんなエスニックな背景を持った人でも「典型的な」アメリカ人になる』という文章がありました。でもこれはあまり的を得ていないと思います。アメリカやオーストラリアなど、他国からの移民で出来上がった新興国と、長い歴史のある国ではやはり自国民と外国人との概念に差があるはずです。スペインはイスラム教とキリスト教の混じる歴史を持つ国ですが、それでもやはりアメリカのような”開かれた”国ではありません。移民数は日本とは比べ物にならないほど多く、南米各国をはじめ、北アフリカ、東ヨーロッパ、中国などからの移民が多く暮らしています。スペインとの二重国籍を持っている人も多く、養子縁組でスペイン国籍を持っている人も多いです。しかし、スペイン人との会話から漏れ伝わる本音は、あくまで彼らは外国人、生粋のスペイン人ではない、ということです。例えばモロッコなど北アフリカ出身の人を表すMoroという言葉。これは日本語のガイジンよりもっと差別的です。中近東出身のイスラム教徒の父親を持つ知人は、子供の頃の話として友達が父親のことをMoroと呼ぶのが嫌いだったと言っていました。イスラム教徒でも、北アフリカと中近東とでは、”民族の純度”が違うそうで、中近東出身のイスラム教徒はMoroではない、と。また、中国人(アジア人)の子供はどこへ行ってもChinoです。スペイン国籍を持ち、スペイン人の両親のもとで育っていても、外見がスペイン人ではないからでしょう。これは南米出身者でもジプシーでも同じです。サッカーのスペイン代表で、David Silvaという選手がいますが、お母さんが日本人とのハーフだそうで、スペイン人から見ると典型的なスペイン人ではないようです。数年前ある試合の実況中継で、Chino Silvaと呼ばれていたのを、今でも鮮明に覚えています。アメリカ同様、表向きはみんな仲良く、というスペインですが、やはり”典型的なスペイン人”という概念はそう簡単には消滅しないのでしょう。

さて、大阪なおみ選手のことはこれまで名前しか知らなかったので、今回を良い機会にインタビューなどを見てみました。たどたどしい日本語で、時に英語での返答となって返ってくるインタビューは、「日本人」とみるには正直なところ違和感がありました。ダルビッシュ有選手や、ケンブリッジ飛鳥選手など、スポーツの世界でも活躍しているハーフ・ミックスはたくさんいますが、これまで見聞きしていた彼らの日本語は日本人ネイティブですから、彼らを日本人代表として応援するのに違和感を持ったことは全くありませんでした。今回違和感を感じたのは、2016年リオオリンピックのゴルフ選手以来です。彼女は発音がネイティブでないということ以外に、発言内容が日本人選手からは到底聞かれるようなものではなかったからです。というのも、勝てなかった試合後のインタビューで、反省や残念である気持ちを述べるのではなく、『私は頑張りました』というようなことを言ったからです。大阪選手は、ところが、表彰式の様子と発言が、わたしにはまるっきり日本人だと映りました。謙虚な姿勢、そして勝者のスピーチの中で I'm sorry と言ってしまうところ。さらに試合後に食べたいものがカツ丼やカツカレーだったというのも、れっきとした「日本人」に感じられました。子供の頃アメリカに移住したそうですが、その割にはアメリカナイズされた笑顔や態度、発言などがあまり見られない大阪選手。育った環境と育った言語、さらに育った教育が一致しない例を目の当たりにして、わたしの思っていた国籍の定義方法は成立しないのだと悟る機会となりました。

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