日本のニュースでも見かけたマドリードの道路清掃員のストライキ。1週間以上が経ち、町中がゴミで溢れかえっています・・・
これはスト開始直後の、「全然汚れていない」頃。
最小限度の作業すら実施されていないとのことで、ゴミ箱周辺はもちろん、道にはゴミや紙くずが広がっています。今回のストは大幅な人員削減に抗議するものということで、理解はできるのですが、とはいってもゴミにあふれる街を歩くのは気持ちがいいものではありません。
そして日本人な頭に浮かんだ疑問は二つ。
①付近の住人や商店の人は、店先だけでも掃除しようと思わないのだろうか?(日本で同じことが起きたとしたら、各住居と各店舗が周辺の掃除をすることでゴミはこんなに積もっていかないだろうと思うのだけど・・・)
②そもそも、誰がこんなにゴミを道に捨てていくのか?(テロ以来既に10年程はゴミ箱がない東京では自宅持ち帰りが当然。少なくとも捨てる余裕のあるゴミ箱があるところまで保持するのが当然なのだけど・・・)
道端に平気で物を捨てる人が多いスペインで(よく見かけます)は、例え清掃中止中だと知っていても、関係ないのでしょう。
こんな時、スペインでよく聞くフレーズを思い出します。「Es tu problema(それはそっちの問題)」 本質のすり替え名人(!?)が多いスペインではなにかにつけて、こう言ってお終いにしちゃうのです。 ※例えば、万引き少年が居合わせた客に注意されたときに、「盗みやすい環境にしておいた店側が悪い」と責任を擦り付けるような感じです。 道が汚いのは清掃員が仕事をしていないから。自分はいつも通り捨てる。と、こう思っている人が多いのでしょう。(例え本心ではどこかそれが正しいことだとは思っていないとしても、きっとこう言って自衛するでしょう)そしてそんな考えをする人が多ければ、それが普通となり、習慣となり、常識となってしまうのでしょう。
清掃員がいるから道に物を平気で捨てられるのか、それとも平気で物を捨てる人が多いから清掃員が必要なのか。道端にゴミを捨てなければ、清掃員を雇う分のコストが浮くでしょう(コストカット、コストカットと、どこもかしこも煩いので)。一人一人の努力で防げることへ税金が使われているのだとしたら、それは無駄に思えてしまいます。この話を以前スペイン人としたところ、「コストがかかるのは確かだが、街をきれいに保つことは自分も気持ちよく過ごせるということ。そのcomodidad(便利さ・快適さ)のためにはコストがかかってもしょうがないと思う。」との意見。わたしはその時悟ったのです。話の視点が、根本的に違う、ということを。そう、わたしは"きれいな街"であることを前提に考えていたのですが、そのスペイン人は"汚い街"を前提に話していたのです。
街をきれいに保つのはいいこと。そのために何をするのかと自問したとき、汚さないようにすればいい、と"予防"するのが日本。一方、汚れたのを片付ければいい、と"後始末"に回るのがスペイン。これは何も道端に限った話ではありません。もちろん個人差はあるでしょうが、例えば臭わないように、常に小分けに生ごみを詰めて捨てる日本人に対して、臭ってから気づいてゴミを捨てるスペイン人。消しゴムのカスが飛び散らないように、消すそばから一か所にまとめていく日本人に対して、カスを好き放題飛び散らせておいて後でかき集めて捨てるスペイン人。・・・と様々な面で物事に対する取り組み方の違いが目立ちます。
道を汚さないためにはごみを捨てなければいい、という発想に対して、汚れたら(道は汚れるものだ!)掃除をすればいいのだ、という発想。日本の発想がゼロをマイナスにしないようにするのだとしたら、スペインの発想は、いったんマイナスになるのを許可しておいて、それをゼロに戻させる、という感じでしょうか。結局どちらを選ぶかは好みの問題になるのでしょうけど、でもこの、「いったん好きにさせておいて後で取り戻す」思考パターンって、アメリカの銃問題にもどこか通じているような気がするのです・・・「銃を持っている人に撃たれる可能性があるから自分も銃を持つ」。どうして「・・・撃たれる可能性があるから、あなたもわたしも銃を持つのをやめましょう」にならないのかなぁ、と。(もちろんこの問題はもっと複雑ではありますが)
マイナスを中和するより、全員でゼロを達成する方が、一見大変そうですが、実はもっとシンプルでいいと思うんですよね。ま、そう思うのはきっと、私が日本で生まれ育ったからなのでしょうけど。